(官職分類、給与の標準化及び機能の分散)が1956年に議会で承認された。その後、何代もの大統領によってこの計画の実施が試みられたが実現されなかった。 1965年に発足したマルコス政権においても、この計画を法律化させることが課題とされた。 大統領は、提案から7年後に、大統領決定第1号として事実上最初の法律を公布したが、具体的な進展は見ることなく推移した。 マルコス政権による戒厳令下では、フィリピン官僚制の中核として、例えば、国家経済開発庁(NEDA)などの技術的な専門集団(テクノクラート)を据えたが、公務員の人材登用の面では試験制度による採用よりも、従来からの縁故採用に加え、私的に雇う隠れ役人の労働慣行が著しく増加した。 同時に、マルコス政権下において、終身職による高級管理職(Career Executive Service)制度を1974年に創設した。この制度は、英国の行政官制度にならったものとされ、具体的には、行政官のエリート集団を構成するものであった。しかしながら、実際には、この制度についても機能することなく推移した。 なお、人事委員会は1973年、憲法上の独立機関となった。 ?Cアキノ政権からラモス政権ヘ アキノ大統領は就任後、官僚機構の再編に着手した。具体的には、分権化、予算シーリング制度の導入、政府系企業の民営化などを積極的に推進した。省庁は、「Ministry」から「Department」に変更された。また、前政権から在職していた多くの職員が略式による免職によって解雇された。 1992年に就任したラモス大統領は、基本的には前政権の分権化、民営化などの再民主化路線を継承し、自らの開発ビジョン「フィリピン2000」の達成に行政改革が不可欠なものであると表明しつつ、社会経済発展の促進者として官僚機構を認識して好意的な改革プログラムを推進している。
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